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Channel: 山宣ワールド
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【30】山宣の色紙・揮毫

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新潟の市村さんの紹介は縦書き 200903-30.jpg 山宣の揮毫はあまり残っていません。晩年、東京と新潟の五泉での2つがあります。その1つが新潟の五泉で見つかっていた、縦書きの「唯生唯戦」の4文字のもの。横書きのものが2日前の東京で障子に書かれたものです。この4文字が何を意味するのかは謎です。  約1週間後に山宣は刺殺されましたが、宿泊していた宿、東京神田の光栄館の関係者の平澤さんにお聞きしたことがあります。この宿は代議士山宣の定宿でしたが、2階の山宣が寝起きしていた床の間には、南州の軸が懸っていたと言われました。「唯生唯戦」はその軸にヒントを得たのではないかと想像したわけです。  そこで西郷の本を読んでみました。そして鹿児島市の記念館を訪れた際に、館長にお尋ねし、軸になっている漢詩を調べたことがあります。  1929年2月26日夜、夜行列車で東京を出た山宣は8時過ぎに五泉に着く予定でした。急いでいたのでしょう。切符は車内で買っています、資料室にその証拠の車掌さんから求めたチケットが残されています。  山宣への警察の弾圧が厳しい。そこで全農の新潟県連のリーダーであった石田有全が迎えに出むき、列車の中で会いそのまま乗り越して村松駅で下車、そこで山宣は演説を行い、その後に五泉駅前の<かじや旅館>に行きました。ここで昼食座談会を行い、山宣は「科学的セックス論」を語り、そこで「唯生唯戦」の書を書き残したのでした。  新潟社会運動史研究家・「新教(新興教育研究所:昭和5年創立)活動家の市村氏は当時の山宣の行動を語ってくれました。もともと五泉(中越地震で大変な被害を受けた所)は新潟出身の土田杏村で、「自由大学」を開設したおり、山宣は講師として1923年8月に行われた「魚沼自由大学」で、高倉テルらとともに講師の1人として「性教育」を話した所でした。

【31】孤塁論争と「赤旗」

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 山宣没50周年事業では、山宣とともに活動した同志たちの最後の大結集となったのが 花やしきでの全国交流会でした。ここでの1つの「議論」は標記のものです。強くこのことを主張したのが、群馬県の宮岡融(とおる)さん。  私や佐々木敏二さんに長文の訴え「山宣ひとり赤旗守るー孤塁は正しくない」との主張を1958年3月17日の「アカハタ」に載せ、全国の仲間や研究者からの声を集め、まとめた手書き新聞・「よびごえ」を送って来られました。  それには山辺健太郎、安田徳太郎、斎藤秀夫、谷口善太郎、西尾次郎平(註、全農大会の書記)、羽原正一、田村敬男らが発言していました。宮岡はこの「よびごえ」(難波英夫夫字による)では、50周年事業実行委員会の事務局長の任にあった私へ手紙を送ってきました。  「“山宣のごとくたたかおう!” 連絡のうまくつかないままに、1936年の大阪を逃げ出し四十年間いつもこの気持で過ごしました。年月が過ぎれば過ぎるほどに科学者であり人道主義者であり、それゆえに共産主義者としての山本先生の偉大さに頭がさがるのです。<五十周年集会でまとまれば>、大山先生の墓碑銘の孤塁を赤はたと書き変えてはどうかと提案します。石工に相談されれば立派なはめ込みができるはずです」(1979年1月25日手紙)。  佐々木敏二さんの記述にこうあります。「<卑怯者去らば去れ、我等は赤旗守る>無産階級の議員として出ている人は日々何をしているか」(この大会は3月4日、大阪であり)演説後東京に行き、国会で治安維持法に反対する演説を試みるが「質問打ち切りのためやれなくなるだろう。実に今や階級的立場を守る者はただ一人だ。だが、淋しくない。山宣ひとり孤塁を守る。背後には多数の同志たちが・・・(関係者は、赤旗だったという)」(汐文社:『山本宣治』(下)344p)。  私はこの件での説明を佐々木から受けていました。富岡や西尾らの意見へとの論争を予測して、実証主義者の佐々木として徹底して調査をしました。大原社会問題研究所にある全農第2回大会議事録は大会書記の西尾次郎平の記載で、それには<独塁>とありました。大阪市会議員で西尾治郎平さん(当時72歳)は私に、「私が聞いた山宣の最後の演説」と題したコピー(全農第2回大会記念バッチの両面の写真が載っている)を持ってこられ当時の様子を語ってくださいました。  「議場の前面、左側の来賓控え室から、ゆっくりと出てきた山宣の背広の襟には議員のバッヂがあった。」  <ヘマな事をしたのは所轄の戎警察署の臨監の巡査部長である。本来は「赤旗守る」の件で山下警部の合図が出たのであるが、堂々たる山宣の気魄に圧せられてヨボヨボ部長がタイミングを狂わせてしまったのだ>  こうしたリアルな表現に会うと西尾説に靡(なび)いてしまいます。でも、議事録にある記録から判断すべきでしょう。「独塁」であり、孤塁説をとるのが佐々木敏二の考え方でした。歴史学者が議事録から読み取らず、どこに根拠を置くのか、でした。富岡、西尾らが強く<赤旗であった>と申されましたが、記憶はそう確かなものではないなあと思いました。  ただ、弾圧のうち続く中で過酷な拷問に耐えて闘った山宣の同志たちの思いは宮岡や西尾らの共有するものは何かを考えるのが大切だが、佐々木が憤慨したように50周年記念集会において決議を挙げ、墓碑銘を塗り替えるのは歴史偽造であり、やり過ぎでしょう。  大山が孤塁としたためだが、墨跡は文学的であり、美しい。そして半世紀にわたって存在してきたのも歴史的事実です。この赤旗は、共産党の旗でなく旧労農党の赤旗でした。山宣らの闘いが「孤塁」に追いつめられないように広範な人々と「9条平和」を守るのが山宣の願いです。棺の中の遺体を赤旗で包むように指示を出したのは母・タネさんですが、お棺に赤旗をまいておくと官憲に奪われる恐れもあり、防衛にも細心の配慮が求められたのが当時の厳しい情勢でした。   「労農党の旗の下に」(労農党の歌)   見よ 民衆の糧道は 搾取の魔手にかすめられ   自由はあげて 専制の鉄鎖の下に死なんとす   今は闘争に生きんかな 暴圧の嵐<砲火>を越えてわれら行く   労農党の旗の下に 労農との旗の下に  

【32】北川鉄夫の山宣追悼歌と労農葬 

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20090331.jpg  「東雲暗き反動の 同志は刃にたおれ 悲しみのつきぬ間も 憎しみ胸に溢る   血に染めし亡骸に 今やいざ復讐の 誓いは鉄をも砕く」  毎年、3月5日の山宣の命日に彼の業績をしのび、彼の意思を継いで活動することを誓う墓前祭が宇治の善法の墓前で行われています。その際、歌われる山宣追悼歌の作者が北川鉄夫です。その2番は以下の通りです。   「祭壇守るわが友の 怒りは焔と燃えて 赤旗掲げ三月の嵐をつきて進む   誓いて屍こえ 今やいざ血に餓えし 今やいざ血に餓えし彼奴等を倒さずばやまじ」  私が初めてお会した時、文芸評論家・北川鉄夫の名刺を差し出され、本名より通りが良いのでペンネームで通されていました。ペンネームの由来は花やしきの北側を宇治川が流れていますので、姓を「北川」、歌詞にある「鉄をも砕く」の1文字「鉄」をとって名前になったそうです。名付けたのは田村敬男です。北側氏の本名は西村龍三、旧制三高生で、社会科学研究会員で、作家同盟と映画同盟に参加していました。山宣の暗殺を知った3月6日に、ナップ(プロレタリア芸術団体)の関西地方協議会を京都郊外の淀で開くことになっていて、非公然の集会なのでピクニックを装い、淀城か近くの河原に集い、日向ぼっこしながら協議をやる手筈でした。朝、新聞には山宣の暗殺の記事があり、ガーンと頭にきて、細心の注意を払い駅に近づくと、警察官らしきものがうろうろしていたため三条駅を越えて四条から乗って淀駅に行ったと言う。それまで「二度のブタ箱」を経験していたので権力の弾圧への警戒心をもっていました。集会場所の淀川で、寝そべり協議を始めた頃、レポが来て、①追悼歌(赤旗のメロデーで)の作成、②葬儀会場の装飾、③告別式に来る人への劇作、④遺骨到着から葬儀終了までの記録映画作製等の対策の相談がなされました。翌日、北川の友人の下宿で具体的な相談が行われたようです。  山宣の遺体が花やしきに戻ったのは、9日の昼頃で、広場の祭壇で詰めかけた人々の弔意を受けました。午後1時から、旧館の2階の大広間に安置され、通夜が行われました。通夜は6日間続けられました。その間に、プロレタリア演劇同盟のメンバーによる即興劇も行われました。その中心が大岡欣治でした。山宣役には田村敬男が扮しての熱演で参加者に大いに歓迎されたと言われます。  その様子は、北川と大岡欣治が書いています(「山宣研究」4号)。その中で、大岡欣治さんは当時、同志社大学の学生であり、山宣の性教育を受けたという。「京都における山宣労農葬の芸術活動」でした。

【33】旧友・土曜会の老闘士

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20090518.jpg 1978年の春、山宣没50周年記念事業実行委員会(50周年委員会と以下略称す)が住谷悦治氏を呼びかけ人代表として作られました。呼びかけ人は、朝山新一、大山柳子、北川鉄夫、タカクラ・テル、田畑忍、田村敬男、細迫朝夫、西口克己、安田徳太郎、山中登、山内年彦、山本浩治、佐々木敏二、木村京太郎、河田賢治、和田洋一、小野喜三郎、松尾尊、井上喜代松、事務局長が小田切明徳でした。  事務局団体は、同志社山宣会・宇治山宣会、国民救援会京都府本、日本科学者会議京都支部、民青京都府委員会、土曜会でした。この50周年事業は、記念集会、資料展、記念館建設募金開始、『山本宣治全集』(全7巻)、『山本宣治写真集』の出版等を行う事を決め、運動を行いました。この活動内容は「実行委員会にュース」(NO.8号まで出しました)。記念館建設募金事業についてのみ具体化が進みませんでしたが、他の分野では良い取り組みがなされました。  実行委員会以外の取り組みでは、山宣劇の「嵐の中の赤いバラ」上演運動、「京都民報」、「赤旗」等での山宣特集が組まれ、「山宣とその時代やその周辺」を多くの人々に知らしめることができました。この活動の結果は、「山宣研究」5号に抄録されています。  この事業を推進する上で、土曜会の存在を特記しておきたいと思います。その中心メンバーとして事務局次長となった井垣次光、木村京太郎、北牧孝三らは山宣と同時代の活動家でした。そして、土曜会を作り、独自にミーティングをし、課題を決めた取り組みをしていました。勤務時間に拘束されてそのあと活動する者とちがい、土曜会の皆さんは日中から集まり行動することが可能でした。彼らが旧友を辿り、呼びかけて記念集会、募金運動を盛り上げました。彼らの意識としては、「50周年が現役で最後の集まりとなる」事を自覚されていたと思われます。たとえば、北牧は当時の同志たちに行事の内容を手紙で送り、記念行事・集会への参加や募金の訴えをしていました。北牧は東京で東大生のセツルメントの活動や労農党の選挙運動や市電闘争で活動していました。  さて、この土曜会の行方についても述べておきます。50周年事業が終わった後(1980年)に、「あの続きの組織を作ろう」と北牧が私に言いました。私的な事情を申し上げあげますと、私はその頃、山宣研究が取り持つ縁で北牧の1人娘と結婚していました。そのため北牧とよく会うようになったのですが、土曜会のメンバーは日常的に密度の濃い交流をしていました。岳父は脳梗塞の後遺症で適切な言葉がすぐに出ないようで、しばしば何を言われているのか不明の事がありましたが、「あの続き」とは50周年事業でまとめあげてきた闘いの歴史を記録する会の立ち上げを意味していました。その結果、「京都民主主義運動史を語る会」が生まれ、機関誌『燎原』を出すことになりました。爾来、この『燎原』は177号(2008年7月号)になりました。

【34】山宣の子ども達(1)

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長男の英治さんとの出会い 「山宣さんはやさしい人だった。河原町で特高の尾行中、特高が人ごみではぐれないようにとステッキをあげて、自分の位置を教えてあげていました」  71年の春でした。京大の徳田研究室で、「性教育先駆者の山宣から学ぼう」と、生物学教育の研究で性教育をどう扱うかの議論が起きた時に呼びかけがありました。  「君の勤務校が彼の母校です。調べて報告をしてください」と、山宣の性教育との出会いが始まりました。「全集」「選集」読みから始まりました。西口さんにお会いしました。ある程度の下調べができましたので、宇治の旅館花やしきに資料を見せていただきに行きました。旧大広間の壁面に本棚が置かれていました。私が見たかったのは山宣日記でした。話を伺い、それをお借りして宿泊した部屋で読みました。英治さんは、私の山宣研究の水準を聞きとり、「その先の詳しいことは、今鹿児島にいる佐々木敏二さんが書いたものをみてください」と助言くださいました。  こうして我が山宣研究は出発しました。  翌年、鹿児島から佐々木さんが戻られてから、長女・治子さん、山宣の語り部・田村敬男さんらを紹介していただき、英治さんから「佐々木資料室長の補佐役はできますか」とおっしゃっていただきました。その後、英治さんは職場の忙しさに追われるうちに73年秋、急逝(62歳)されました。充分にお話ができずに亡くなられたことは無念の極みでした。「花やしき花やしき浮舟園」を国際観光ホテルとして千年の歴史都市・宇治の中にゆるぎない位置を占めるまでに発展させた功績が評価されます。 二男の浩治の文人肌は父譲り  カナダのカナナスキのホテルでの事。ディナーの時でしたが、ピアノに目が行くとすっと立ち上がり演奏を始めました。奥さんはハラハラしておりました。臆する事無い姿勢はあっぱれです。この地でパパ・山宣が教会の礼拝の最中にピアノを演じたのを思い出されたのでしょうか。  二男の浩治さんは医者です。長男や三男・繁治さんのようには社交的ではなかったように思いましたが、とても愉快な面を私には見せていただいたようです。開業しておられたのが京都市北区で、私の職場は近くでしたから必要な時は電話で御都合をお聞きして昼休みに自転車で医院に立ち寄らせていただきました。写真を撮る事がお好きで、スナップ写真をしばしばいただきました。  さて、患者さんが来られた時のこと、「今日は写真をとります」とDr.浩治。患者は畏(かしこ)まってレントゲンを思い浮かべておられるその時、手もとの一眼レフのカメラでパシャリ。山宣もこうした愉快な所をいくつも持っていた事を彷彿される瞬間でした。よく気がつかれる方で「おい、小田切君、ビールを持って帰り」と隣の部屋から数本紙袋に入れたのをしばしば渡されました。  「山宣を偲ぶ集い」や性教協の研究会で英治さん亡き後、浩治さんに挨拶をお願致しました。その時、「簡単に」と言われますと、「私は山宣の二男の浩治です。本日はご苦労様でした」で終わり、司会者は大慌てでした。  浩治さんのパパである山宣の回想について、サンガー女史が日本に来られた時の事を思い出します。女史の京都での講演会は専門家を対象にしたものでした。雑誌『改造』が産児調節運動の指導者をアメリカから招くと大宣伝しての取り組みを、日本政府は不許可として横浜港で女史が持参した資料を没収し、一般向け講演を禁止したのでした。  この講演会で、事前に女史から直接打診があり、山宣が通訳をすることになり、浩治さんは連れられて行ったそうです。山宣は演壇でなく聴衆と同じフロアーに座っていて、「山本さん」と呼ばれると返事をして演壇に登り、通訳をしたそうです。    浩治さんは音楽ばかりでなく油絵も描かれました。旅に出ますと絵手紙風の絵やスケッチを孫や仲間に旅先からいっぱい描き送っておられました。フクロウの絵が得意で私も油絵を1枚もらいました。

【イベント】山宣生誕記念全国交流会

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山本宣治生誕120年・没後80年記念事業  5月23日(土)、18時~20時、料理旅館「花やしき浮舟園」(京都府宇治市宇治塔川20)にて交流会を行います。山宣は、平等院そば宇治川ほとりの「花やしき」2代目当主で、現在はお孫さんが経営しておられます。  記念講演、山宣紹介DVD上映、食事をしながら全国各地からの参加者と懇談・交流します。全国交流会の前に、午後2時半から宇治の散策をいたします。  参加費7000円(含夕食)。  参加申し込みは実行委員会事務局TEL0774・22・5653へ。

【イベント】足跡をたどる信州の旅

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山本宣治生誕120年・没後80年記念事業  10月10日(土)~11日(日)、山宣の足跡をたどる信州の旅ツアーを開催します。  行き先は、長野県上田市別所温泉、戦没画学生慰霊美術館「無言館」などを予定。別所温泉の「山本宣治記念碑」見学に際して、碑前祭に参加します。  ツアーの詳細は実行委員会事務局TEL0774・22・5653まで。

【35】山宣の子ども達(2)

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治子さんは歌人 20090525.jpg 歌集『清明の季』(青磁社、1990年)を出版する事をお勧めし、土井大助さんの紹介で出版社が決まり出版できました。これは宇治市の紫式部市民文化賞受賞となり、二重の意味で嬉しくなりました。実は、私も治子さんから和歌を作りなさいと再三勧められましたが、心のゆとりと実力もなく「はい」と言えず、「考えておきます」でした。この文章を書くにあたって、治子・歌集を再読し、「踏火短歌会」の追悼歌会詠草集を見直しました。何と申しましょうか、治子さんの声が聞こえました。「あなた、私が言うた通りでしょ」、と。  そう言ったその意味が、その時は理解できませんでした。だから遅ればせながら、「私は〈鞴火〉に入会し楽しんでいます、治子さんありがとう」。   烈風に あへてかかげし 大き旗父の生身はひきちぎれたり   戦死、戦災死、三百万人にさきがけて邪魔者、山宣の抹殺ありき 20090525-01.gif これは、治子さんが父・山宣を詠んだ歌です。歌も素敵ですが、この歌集にある「青嵐の日」の文章もすてきで、こうした文が書けるようになりたいものです。  生前の山宣と治子さんとの関係についての安田徳太郎さんの話ですが、宣治さんは治子さんが生まれてからずっとやさしくなった、それまでは優生学通りに沢山の子を産んで育てたいと言っておられたそうです。「治子さんは賢い人です」と付け加えました。 治子さんは肢体障害を持っていたため、山宣は就学を断る申請を出して家庭教師を依頼しました。2人目は近くにお住まいの縣神社の香川しげ子さんでした。  花やしきに通い資料を整理したり読んだりする度に、治子さんのお部屋に立ち寄るようになり、山宣に関する情報のインプットの場になりました。さまざまな事を教えて頂きました。何もお返しできなかったのですが、歌集『清明の季』(青磁社)を出す仲立ちをさせていただき、その歌集が第1回紫式部市民賞を受賞しました。治子さんの実力なのですが、私が入賞したかのように嬉しく思いました。  この歌集受賞に際してのお祝いの宴で大田青丘、洵子のお名前と土屋克夫、安永悦子さんらの詠草を懐かしく読ませていただきました。最晩年、治子さんが入院された京都府南部の青谷国立病院への道は遠く、辛いものでした。おりしも、山宣の命日に治子さんは帰らぬ人となりました。
ご希望の方には治子さんの歌集をお分けします
問い合わせ:
小田切明徳 〒612-8026 京都市伏見区桃山町伊賀6-5 TEL075・622・6889
井出美代さんと浜田繁治さん  タネさんが長寿でしたから、二女の井出美代さんと三男・浜田繁治さんにはお元気で長寿の記録を塗り替えていただきたいと存じます。繁治さんは2007年の生誕祭・宇治山宣会総会の際、鳥取から6人のお孫さんをお連れになり、「この孫たちの曾祖父の山本宣治がどんな人だったか、そして今もどれほど大勢の人びとに慕われ、その遺志がうけつがれているかを知ってほしいと思い連れてきました」と紹介されました。  もう一人の娘が二女の井出美代さんです。お二人ともに姓が違いますが、DNAは父親譲りです。丸岡秀子、安田徳太郎の取り持つ縁で長野県の佐久の酒屋三男・井出武三郎さんとの結婚を承諾したのが、親代わりの長男の英治さんでした。美代さんは姉・治子思いです。だから、「私は2人と結婚したようには思えた」と、武三郎さんが後日申されたことがあります。武三郎さんには安田徳太郎さんを紹介いただき、安田家のことをいっぱい教えてもらいました。

【36】山宣と同志としての間柄の住谷悦治

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住谷 同志社山宣会の会長をして頂いた関係で住谷先生にはいろんな教えを頂きました。そのころ同志社の「学友会」は赤軍派が牛耳っていて、校内が荒んでおり建物の屋上にコンクリートや煉瓦の破片が積み重ねられた時がありました。廊下にはいたるところに、アジビラが貼りまわされ、総長から見れば居たたまれなかったでしょう。そこで住谷先生は、「山宣は校庭を愛する会をつくってキャンパスを美しくする運動にもかかわりましたよ」と、その現状を憂いた事があります。その会は山宣が同志社普通学校入学時代に一緒になった高橋元一郎らと起こしたものです。高橋は山宣の同志社予科教師時代の図書館職員であり、山宣刺殺時に弔意を示す手紙を送られた方です。  山宣の性学と性教育の調査で‘07年にイギリス・ドイツ、カンボジア・対麵鉄道に旅しました。そこでの見聞から、山宣との関わりについて述べておきます。  イギリスでエリスの足取りを追跡する旅の途中で、前から気になっていたマルクスのお墓参りにいきました。ロンドンから地下鉄でハイゲート駅へ。工事中で観光案内図のように行けず難渋しましたが、ハイゲート学校の横を通りお墓へは急な坂を降りました。  墓地入口で入場料の徴収員がチェックに当たり、「もし写真を撮るのなら幾らか」と肩からぶら下げたカメラを見て要求してきました。墓群の中にあるマルクスの墓は、道に沿って奥まった所で、哲学者のハーバート・スペンサーの近くにありました。予想を超えた馬鹿でかいものでびっくり。これは潰れたソ連が「ソ連流共産主義宣伝のための権威づけ」に使おうと大きな像を作ったのでした。  おなじような感想を私の尊敬する住谷悦治先生も持たれておりました。私が同志社中学校に就職した時の総長で同志社山宣会会長をして頂いたのですが、先生は昭和9年5月から12月にヨーロッパ旅行をされた時にイギリスでマルクスの墓をしばしば訪れたそうです。 

【37】白金台の徳太郎さん

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思い出す人々 私が安田徳太郎を知ったのは高校時代で、山宣より早くその名前を知っていました。フックスの『風俗の歴史」という緑のシリーズでした。叔父、叔母の影響で高校時代には社会問題研究部に属し、安保反対運動のデモ行進に出ましたし、原水爆反対の署名運動に参加するなど社会的には進んでいました。  しかし、性については奥手でした。でも、その『風俗の歴史』にはびっくりしつつ興味津津でこっそり見ていましたから、安田さんのお名前は忘れることができませんでした。大学では科学史に関心を寄せ、その雑誌を読み、同志社に来た時その学会に入会して工学部の島尾先生にご指導いただきました。ここではダンネマンの『大自然科学史』全巻を読みましたからかなり思い入れがありました。  さて、白金台の安田さん宅へは、初めは井出美代・武三郎ご夫妻のご案内で伺い、その後は東京に出る度にご都合をお聞きしてお邪魔しました。まず、お聞きしたのは戦後に出版された『山宣選集』の2巻がどこを探してもありませんでしたから、その事でした。性タブーがあり、新興出版社は企画したが、上からの指示で印刷できなかったと。  従弟であり、花やしきで生活を共にしており、一貫して反戦平和、庶民の味方であり、山宣とは真の同志であったのが安田さんでした。  奥さんの光代さん、娘の朝子さんともども山宣と「花やしき」の人々、江戸末期から明治維新にいたる京都の歴史、安田家の人々(タネ、トキさんをはじめ御兄弟)の事まで折に触れてお聞きしました。私の関心が科学史にあり、理科の教師であり、「科学史学会」の会員でありましたので、性教育や科学史関係からアプローチした「安田徳太郎伝」を考えたことがあります(「山宣研究」6号、8号)。しかしこれは大それたことでした。ご本人の『思い出す人々』(青土社)があり、その後に、娘さんの朝子さんの『父母の青春』と長男編集『安田徳太郎選集・20世紀を生きた人々』が出版されました。

【38】生き字引の田村敬男

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 田村敬男さんは、同郷(と言っても田村は松本出身)でした。同志社に勤務した関係で創立者の1人の山本覚馬(目の障害を持っていた)との関係もあり、田村さんは京都のライトハウスの理事長を務めていました。田村さんも足に障害を負っていてステッキを愛用していました。そんなことで、田村さんとライトハウスの役員でもあった住谷先生とご一緒する機会もあり山宣についての思い出もお聞きしました。  田村さんは山宣の同志であり、彼が代議士に当選した時の選挙事務局のメンバーとして活動しました。前年の制限選挙での衆議院補欠選挙京都府第5区(口丹波3郡)に立候補して489票で予想通りの落選でしたが、その総括文書『選挙戦における労働農民党の初陣』が素晴らしいもので、次の第1回普通選挙での勝利の基礎を作ったと言えます。  この補欠選挙では、遅れた封建思想の温床・山奥の集落へは自転車部隊が大活躍しました。山越え谷越え、自転車を担ぎ、一日平均37里余走り回り、宣伝ビラを配り、敵状を偵察しました。応援に駆け付けた学生たちが「労働者諸君!」と叫べども、風呂屋の煙突1本しかない亀岡の農民は組織できません。工業地帯の労働組合への扇動とは訳が違うのでした。  山宣亡きあとの、山宣葬儀の際にもタネさんと相談して裏から支えました。田村さんは「この葬儀は後世に残るものになる」から記録映画を撮りたいと言いだしました。京都三条サクラカメラでフィルムを買う段取りをつけてくれました。田村さんは松崎啓次、上田勇、北川鉄夫らに指示を出しました。上田は16mm撮影機を借り24時間で撮影技術を憶えて2台のカメラ隊をつくり、屋根の上から溝の中に隠れて警官から没収されないようにと撮影を続けました。出来上がったのが「山宣労農葬」・「嵐の日の記録」です。  なお、この記録映画はタネさんの叡智により守られ、同志社山宣会の佐々木敏二さんのポケットマネーにより、小坂哲人さんの援助で製作されました。田村さんがお元気な頃は、アドリブによる解説がされました。2008年・山宣没80年記念行事として復刻の予定です。 田村の著書 田村さんの山宣についての思い出は、『山本宣治』(室賀書店)に書かれており、西口小説の前はここからが出発点でした。下賀茂神社の北側にお宅があり、くぐり戸を開けてしばしばお邪魔しました。私が生物学の教師であったためか、「小田切君、ここが大事だから、よーく聞けよ。山宣の学問が単なる学問のためでなく人類の生成・発展のために実践活動を通して生かされなければならないのだ」と繰り返して聞かされました。  戦後、西口克己の小説「山宣」、映画「武器なき斗い」の前に、田村さんは戦前の山宣の同志たちの記録を収録した『追憶の山本宣治』(改定版、昭和堂)を出版。山宣の語り部として、我々に熱をこめて語ってくれました。田村さんの活動分野の広さも驚かされます。友人からの手記を募って出した書「語りし自伝」を見ただけで、活動歴が分かります。

【39】佐々木敏二資料館長 

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20090526-sasaki01.jpg 佐々木敏二さんは、岩手から京大の哲学に学びたい、と出て来られ同志社でイギリスのJ・ロックを専攻されました。政治的な昂揚期に、正義感旺盛で多感な佐々木青年は演劇活動に、学生運動にと闊達に活動しました。この中で同志社山宣会に加わり、仲間と山宣生誕祭(5月28日前後)を行い、京大の「河上肇祭」と呼応して民主化運動を盛り上げました。  旧同志社山宣会は佐々木氏や佐藤峯夫、渡辺久丸らが中心となって、同志社山宣会生誕祭と山宣資料の整理・目録作りをやりました(総長・住谷悦治、同志社人文研究所第1研究「キリスト教社会問題の責任者」)。佐々木は同研究所の嘱託職員となり、約10年かかってこの仕事をやり抜き、評伝『山本宣治』(上下)を書きあげ、田村や西口の語りや、書かれた山宣像の不充分さを補い、全体像を明らかにしました。  この評伝執筆中に私は佐々木氏に出会い、指導を受け、共同研究体制に入りました。その「上巻」の生原稿をトランクに入れたヴァンクーヴァーへの弥次喜多道中は、私にとってはその後5回にわたるカナダへの旅のスタートであり、佐々木にとってはカナダ移民史研究の始まりとなりました。  旅行会社のパックツアーで、サンフランシスコ~ヴァンクーヴァー10日間の旅です。なぜ、野次喜多道中か? サンフランシスコの空港で私の空色のバッグが出てこないのです。大事な「山宣伝の生原稿、あわや行方不明か!」と、大慌て。だのに、空港の職員はこちらのロストバゲージを意に介せず、12時になると昼休みだと。それまで英語対応は英語を教えている佐々木さんに任せていたのですが、「君、交渉をやれ」というのです。仕方なく必死に応対しました。  こんな経験を積みながらヴァンクーヴァーの日加協会会長のジョージ・アキラ・イシハラの待つホテルへ行きました。Dr.石原明乃助の息子、Dr.ジョージ石原は歯医者さんで、北ヴァンクーヴァーの高級住宅に住まわれていました。当時、ヴァンクーヴァーの旧日本人街は日系人が商売をしていて活気がありました。お寿司屋さんでサーモンの照り焼きを御馳走になり、おいしかったのが忘れられません。この日本人街はその後訪れる度に寂れていきました。チャイナタウンとは大違いです。さみしい思いを持ちつつも現地社会にうまく同化するのが日本人の特質なのかとも思います。  佐々木さんと、山宣が生活をした跡を追跡しました。ハウスワークのハロ街、日系人がいた旧日本人街と、散歩に出かけたスタンレー公園、ストラスコナ小学校、ブリタニアン高校そしてスチーヴストン漁港跡。ここでは元漁民の松崎さんらの聞き取りができました。 20090526-sasaki02.jpg 佐々木さんは山宣研究で基盤を固めてから後、晩年の10余年はカナダ移民史研究で毎年ヴァンクーヴァーは元よりカムループスからトロントと日系人の活動した地域を訪れ、『カナダ移民史』(カナダ首相賞受賞)等の業績を積み上げられました。研究者としては日本ではマイナーな存在でしたが、『京大学生運動史』、『長野県下伊那社会主義運動史』等、山宣研究、治安維持法関係の時代の活動家の業績を掘り起こして本にされました。旺盛な文筆活動と大学における教育活動に触れる紙数がありませんが、演劇活動、バドミントン、スキー等の新体連の活動も熱心に進められました。  佐々木さんの私への最後のアドヴァイスは、『山宣・Henryの青春時代』執筆に際して、「いくら子ども向きの本だからと言って現地を見ないで書いてはあかん」と。そこで単身、佐々木方式の安旅行のノーハウに学び実践しました。安いエア・チケットを買い、空港からインド人ドライバーのタクシーに乗り、直にスチーヴストンの漁港へ行き、次にヴァンクーヴァーの山宣の足跡を尋ね、そしてカナディアン・ロッキーを列車で行くコースを採りました。  こうして私のヴァンクーヴァーへの旅は、山宣会のツアー、性教協のツアー、家族で、ウィスラーのスキー場とバスケットボール・MLBの試合見学と、若者向けの『Henry・山宣の青春物語』書くための単独調査でと、計5回となりました。

あとがき

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 宇治山宣会の役員の1人から、「小田切から山宣をとったら何が残るんや」と言われたことがあります。複雑な思いをもちましたが、山宣に対する思い入れを分かってくれましたかと安堵するのか、はたまた何も無いのか─と力不足をなげくのか。  そんなわけで語り部として口述しておくのも悪くはないでしょう。山宣については数百人の聞き取りをしたと思います。  山宣が白色テロにあった翌朝、まっ白な雪に覆われました。  白いやわらかな布団に花やしきはぽっかりと包まれたのでした。  「宣治はまだまだ したい事があったのに、あれだけになった、されてしもうた。そうや宣治の好きだった句を最後に聞いておくれやす」 タネ     宣治 <好むと好まざるとも やがて来る その日のために>                             「議員章欲しとねだりて 困らせしことを最後に父と別れぬ   スナップ写真に残る面影ことごとく 微笑せる父すこし反っ歯にて」  美代   新雪は山宣の死をすっぽりとのみこみました。同志たちが葬儀の支度に走り回る足跡を特高の追跡から隠すために消してくれたのでした。   宇治川へも雪はゆっくり ゆっくり旋回して溶け込みました。   花やしきは 白銀の世界に しずかに 静かに 佇みました。

山宣資料館

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山宣資料館は何処にあるのですか? この欄の何処にも書いてなかったように思いますが・・・

没後82年記念の集い

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日 時 3月13日(日)午後1時半~4時半 会 場 全労連会館(御茶ノ水・文京区湯島2-4-4) 参加費 1000円(30歳以下無料の予定) 1929(昭和4)年3月5日、帝国議会で治安維持法死刑法への改悪反対演説を封じられ、その夜、定宿の神田神保町・光栄館で右翼暴漢に刺殺された人民の代議士・山本宣治、反戦平和に生涯をかけたその生き方を今日にどう引き継ぐか…… 記念講演 「山宣の生き方から引き継ぐもの」 浜林正夫(一橋大学名誉教授) 全員合唱・交流 山宣追悼歌ほか

『千葉県北部無産者診療所物語』を出版しました

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 本の泉社、2012年12月、900円。  無産者診療所運動は、1929年に山本宣治が右翼のテロで倒れたことを契機として、労働者・農民の病院を作ろうと言う呼びかけが行われて発展しました。ご連絡いただければ、振替用紙同封でお送りします。送料はメール便で80円です。

【31】孤塁論争と「赤旗」

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 山宣没50周年事業では、山宣とともに活動した同志たちの最後の大結集となったのが 花やしきでの全国交流会でした。ここでの1つの「議論」は標記のものです。強くこのことを主張したのが、群馬県の宮岡融(とおる)さん。  私や佐々木敏二さんに長文の訴え「山宣ひとり赤旗守るー孤塁は正しくない」との主張を1958年3月17日の「アカハタ」に載せ、全国の仲間や研究者からの声を集め、まとめた手書き新聞・「よびごえ」を送って来られました。  それには山辺健太郎、安田徳太郎、斎藤秀夫、谷口善太郎、西尾次郎平(註、全農大会の書記)、羽原正一、田村敬男らが発言していました。宮岡はこの「よびごえ」(難波英夫夫字による)では、50周年事業実行委員会の事務局長の任にあった私へ手紙を送ってきました。  「“山宣のごとくたたかおう!” 連絡のうまくつかないままに、1936年の大阪を逃げ出し四十年間いつもこの気持で過ごしました。年月が過ぎれば過ぎるほどに科学者であり人道主義者であり、それゆえに共産主義者としての山本先生の偉大さに頭がさがるのです。<五十周年集会でまとまれば>、大山先生の墓碑銘の孤塁を赤はたと書き変えてはどうかと提案します。石工に相談されれば立派なはめ込みができるはずです」(1979年1月25日手紙)。  佐々木敏二さんの記述にこうあります。「<卑怯者去らば去れ、我等は赤旗守る>無産階級の議員として出ている人は日々何をしているか」(この大会は3月4日、大阪であり)演説後東京に行き、国会で治安維持法に反対する演説を試みるが「質問打ち切りのためやれなくなるだろう。実に今や階級的立場を守る者はただ一人だ。だが、淋しくない。山宣ひとり孤塁を守る。背後には多数の同志たちが・・・(関係者は、赤旗だったという)」(汐文社:『山本宣治』(下)344p)。  私はこの件での説明を佐々木から受けていました。富岡や西尾らの意見へとの論争を予測して、実証主義者の佐々木として徹底して調査をしました。大原社会問題研究所にある全農第2回大会議事録は大会書記の西尾次郎平の記載で、それには<独塁>とありました。大阪市会議員で西尾治郎平さん(当時72歳)は私に、「私が聞いた山宣の最後の演説」と題したコピー(全農第2回大会記念バッチの両面の写真が載っている)を持ってこられ当時の様子を語ってくださいました。  「議場の前面、左側の来賓控え室から、ゆっくりと出てきた山宣の背広の襟には議員のバッヂがあった。」  <ヘマな事をしたのは所轄の戎警察署の臨監の巡査部長である。本来は「赤旗守る」の件で山下警部の合図が出たのであるが、堂々たる山宣の気魄に圧せられてヨボヨボ部長がタイミングを狂わせてしまったのだ>  こうしたリアルな表現に会うと西尾説に靡(なび)いてしまいます。でも、議事録にある記録から判断すべきでしょう。「独塁」であり、孤塁説をとるのが佐々木敏二の考え方でした。歴史学者が議事録から読み取らず、どこに根拠を置くのか、でした。富岡、西尾らが強く<赤旗であった>と申されましたが、記憶はそう確かなものではないなあと思いました。  ただ、弾圧のうち続く中で過酷な拷問に耐えて闘った山宣の同志たちの思いは宮岡や西尾らの共有するものは何かを考えるのが大切だが、佐々木が憤慨したように50周年記念集会において決議を挙げ、墓碑銘を塗り替えるのは歴史偽造であり、やり過ぎでしょう。  大山が孤塁としたためだが、墨跡は文学的であり、美しい。そして半世紀にわたって存在してきたのも歴史的事実です。この赤旗は、共産党の旗でなく旧労農党の赤旗でした。山宣らの闘いが「孤塁」に追いつめられないように広範な人々と「9条平和」を守るのが山宣の願いです。棺の中の遺体を赤旗で包むように指示を出したのは母・タネさんですが、お棺に赤旗をまいておくと官憲に奪われる恐れもあり、防衛にも細心の配慮が求められたのが当時の厳しい情勢でした。   「労農党の旗の下に」(労農党の歌)   見よ 民衆の糧道は 搾取の魔手にかすめられ   自由はあげて 専制の鉄鎖の下に死なんとす   今は闘争に生きんかな 暴圧の嵐<砲火>を越えてわれら行く   労農党の旗の下に 労農との旗の下に  

【32】北川鉄夫の山宣追悼歌と労農葬 

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20090331.jpg  「東雲暗き反動の 同志は刃にたおれ 悲しみのつきぬ間も 憎しみ胸に溢る   血に染めし亡骸に 今やいざ復讐の 誓いは鉄をも砕く」  毎年、3月5日の山宣の命日に彼の業績をしのび、彼の意思を継いで活動することを誓う墓前祭が宇治の善法の墓前で行われています。その際、歌われる山宣追悼歌の作者が北川鉄夫です。その2番は以下の通りです。   「祭壇守るわが友の 怒りは焔と燃えて 赤旗掲げ三月の嵐をつきて進む   誓いて屍こえ 今やいざ血に餓えし 今やいざ血に餓えし彼奴等を倒さずばやまじ」  私が初めてお会した時、文芸評論家・北川鉄夫の名刺を差し出され、本名より通りが良いのでペンネームで通されていました。ペンネームの由来は花やしきの北側を宇治川が流れていますので、姓を「北川」、歌詞にある「鉄をも砕く」の1文字「鉄」をとって名前になったそうです。名付けたのは田村敬男です。北側氏の本名は西村龍三、旧制三高生で、社会科学研究会員で、作家同盟と映画同盟に参加していました。山宣の暗殺を知った3月6日に、ナップ(プロレタリア芸術団体)の関西地方協議会を京都郊外の淀で開くことになっていて、非公然の集会なのでピクニックを装い、淀城か近くの河原に集い、日向ぼっこしながら協議をやる手筈でした。朝、新聞には山宣の暗殺の記事があり、ガーンと頭にきて、細心の注意を払い駅に近づくと、警察官らしきものがうろうろしていたため三条駅を越えて四条から乗って淀駅に行ったと言う。それまで「二度のブタ箱」を経験していたので権力の弾圧への警戒心をもっていました。集会場所の淀川で、寝そべり協議を始めた頃、レポが来て、①追悼歌(赤旗のメロデーで)の作成、②葬儀会場の装飾、③告別式に来る人への劇作、④遺骨到着から葬儀終了までの記録映画作製等の対策の相談がなされました。翌日、北川の友人の下宿で具体的な相談が行われたようです。  山宣の遺体が花やしきに戻ったのは、9日の昼頃で、広場の祭壇で詰めかけた人々の弔意を受けました。午後1時から、旧館の2階の大広間に安置され、通夜が行われました。通夜は6日間続けられました。その間に、プロレタリア演劇同盟のメンバーによる即興劇も行われました。その中心が大岡欣治でした。山宣役には田村敬男が扮しての熱演で参加者に大いに歓迎されたと言われます。  その様子は、北川と大岡欣治が書いています(「山宣研究」4号)。その中で、大岡欣治さんは当時、同志社大学の学生であり、山宣の性教育を受けたという。「京都における山宣労農葬の芸術活動」でした。

【33】旧友・土曜会の老闘士

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20090518.jpg 1978年の春、山宣没50周年記念事業実行委員会(50周年委員会と以下略称す)が住谷悦治氏を呼びかけ人代表として作られました。呼びかけ人は、朝山新一、大山柳子、北川鉄夫、タカクラ・テル、田畑忍、田村敬男、細迫朝夫、西口克己、安田徳太郎、山中登、山内年彦、山本浩治、佐々木敏二、木村京太郎、河田賢治、和田洋一、小野喜三郎、松尾尊、井上喜代松、事務局長が小田切明徳でした。  事務局団体は、同志社山宣会・宇治山宣会、国民救援会京都府本、日本科学者会議京都支部、民青京都府委員会、土曜会でした。この50周年事業は、記念集会、資料展、記念館建設募金開始、『山本宣治全集』(全7巻)、『山本宣治写真集』の出版等を行う事を決め、運動を行いました。この活動内容は「実行委員会にュース」(NO.8号まで出しました)。記念館建設募金事業についてのみ具体化が進みませんでしたが、他の分野では良い取り組みがなされました。  実行委員会以外の取り組みでは、山宣劇の「嵐の中の赤いバラ」上演運動、「京都民報」、「赤旗」等での山宣特集が組まれ、「山宣とその時代やその周辺」を多くの人々に知らしめることができました。この活動の結果は、「山宣研究」5号に抄録されています。  この事業を推進する上で、土曜会の存在を特記しておきたいと思います。その中心メンバーとして事務局次長となった井垣次光、木村京太郎、北牧孝三らは山宣と同時代の活動家でした。そして、土曜会を作り、独自にミーティングをし、課題を決めた取り組みをしていました。勤務時間に拘束されてそのあと活動する者とちがい、土曜会の皆さんは日中から集まり行動することが可能でした。彼らが旧友を辿り、呼びかけて記念集会、募金運動を盛り上げました。彼らの意識としては、「50周年が現役で最後の集まりとなる」事を自覚されていたと思われます。たとえば、北牧は当時の同志たちに行事の内容を手紙で送り、記念行事・集会への参加や募金の訴えをしていました。北牧は東京で東大生のセツルメントの活動や労農党の選挙運動や市電闘争で活動していました。  さて、この土曜会の行方についても述べておきます。50周年事業が終わった後(1980年)に、「あの続きの組織を作ろう」と北牧が私に言いました。私的な事情を申し上げあげますと、私はその頃、山宣研究が取り持つ縁で北牧の1人娘と結婚していました。そのため北牧とよく会うようになったのですが、土曜会のメンバーは日常的に密度の濃い交流をしていました。岳父は脳梗塞の後遺症で適切な言葉がすぐに出ないようで、しばしば何を言われているのか不明の事がありましたが、「あの続き」とは50周年事業でまとめあげてきた闘いの歴史を記録する会の立ち上げを意味していました。その結果、「京都民主主義運動史を語る会」が生まれ、機関誌『燎原』を出すことになりました。爾来、この『燎原』は177号(2008年7月号)になりました。

【34】山宣の子ども達(1)

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長男の英治さんとの出会い 「山宣さんはやさしい人だった。河原町で特高の尾行中、特高が人ごみではぐれないようにとステッキをあげて、自分の位置を教えてあげていました」  71年の春でした。京大の徳田研究室で、「性教育先駆者の山宣から学ぼう」と、生物学教育の研究で性教育をどう扱うかの議論が起きた時に呼びかけがありました。  「君の勤務校が彼の母校です。調べて報告をしてください」と、山宣の性教育との出会いが始まりました。「全集」「選集」読みから始まりました。西口さんにお会いしました。ある程度の下調べができましたので、宇治の旅館花やしきに資料を見せていただきに行きました。旧大広間の壁面に本棚が置かれていました。私が見たかったのは山宣日記でした。話を伺い、それをお借りして宿泊した部屋で読みました。英治さんは、私の山宣研究の水準を聞きとり、「その先の詳しいことは、今鹿児島にいる佐々木敏二さんが書いたものをみてください」と助言くださいました。  こうして我が山宣研究は出発しました。  翌年、鹿児島から佐々木さんが戻られてから、長女・治子さん、山宣の語り部・田村敬男さんらを紹介していただき、英治さんから「佐々木資料室長の補佐役はできますか」とおっしゃっていただきました。その後、英治さんは職場の忙しさに追われるうちに73年秋、急逝(62歳)されました。充分にお話ができずに亡くなられたことは無念の極みでした。「花やしき花やしき浮舟園」を国際観光ホテルとして千年の歴史都市・宇治の中にゆるぎない位置を占めるまでに発展させた功績が評価されます。 二男の浩治の文人肌は父譲り  カナダのカナナスキのホテルでの事。ディナーの時でしたが、ピアノに目が行くとすっと立ち上がり演奏を始めました。奥さんはハラハラしておりました。臆する事無い姿勢はあっぱれです。この地でパパ・山宣が教会の礼拝の最中にピアノを演じたのを思い出されたのでしょうか。  二男の浩治さんは医者です。長男や三男・繁治さんのようには社交的ではなかったように思いましたが、とても愉快な面を私には見せていただいたようです。開業しておられたのが京都市北区で、私の職場は近くでしたから必要な時は電話で御都合をお聞きして昼休みに自転車で医院に立ち寄らせていただきました。写真を撮る事がお好きで、スナップ写真をしばしばいただきました。  さて、患者さんが来られた時のこと、「今日は写真をとります」とDr.浩治。患者は畏(かしこ)まってレントゲンを思い浮かべておられるその時、手もとの一眼レフのカメラでパシャリ。山宣もこうした愉快な所をいくつも持っていた事を彷彿される瞬間でした。よく気がつかれる方で「おい、小田切君、ビールを持って帰り」と隣の部屋から数本紙袋に入れたのをしばしば渡されました。  「山宣を偲ぶ集い」や性教協の研究会で英治さん亡き後、浩治さんに挨拶をお願致しました。その時、「簡単に」と言われますと、「私は山宣の二男の浩治です。本日はご苦労様でした」で終わり、司会者は大慌てでした。  浩治さんのパパである山宣の回想について、サンガー女史が日本に来られた時の事を思い出します。女史の京都での講演会は専門家を対象にしたものでした。雑誌『改造』が産児調節運動の指導者をアメリカから招くと大宣伝しての取り組みを、日本政府は不許可として横浜港で女史が持参した資料を没収し、一般向け講演を禁止したのでした。  この講演会で、事前に女史から直接打診があり、山宣が通訳をすることになり、浩治さんは連れられて行ったそうです。山宣は演壇でなく聴衆と同じフロアーに座っていて、「山本さん」と呼ばれると返事をして演壇に登り、通訳をしたそうです。    浩治さんは音楽ばかりでなく油絵も描かれました。旅に出ますと絵手紙風の絵やスケッチを孫や仲間に旅先からいっぱい描き送っておられました。フクロウの絵が得意で私も油絵を1枚もらいました。
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